歩道橋をくだっていると、ギターを背負ってエフェクターボードを握ってスタジオまでの坂を登っていくすきなひとの姿があって思わずぐっと目を見開いた。わたしもう何ヶ月も後ろ姿ばっかり追っているから彼のこと遠くからでもすぐに見つけられます、彼に関する豆知識みたいな諸々も忘れずに反芻しています。あのエフェクターボードがふつうでは考えられないくらいに重いこと、そのせいでいつも手にタコができていること、持っている洋服の総数がすごく少ないこと、小さな身長に見合わない大きさの鞄の中にはいろんなものが入っていて、例えばプーさんの模様のついたマドレーヌがでてきたりすること、三次会の途中で体育座りするわたしの膝に掛けてくれた変な素材の黒いコートをいまだに着ていること、これは良いことで、彼を好きな人がいるということ、これは悪いこと。わるいこと。ちゃんと恋みたいなものをしたの初めてだし、初めてなのに全然叶わないし、毎日毎日ばかみたいに頭の中で名前ばっかり呼んで、このまま先輩/後輩の溝が埋まらないような気もしてもう諦めたほうがいいんじゃないの、でも他に代わりとなってくれるような人もいないので今日も今日とて隣に並んで座った喫煙所のことを思い出して泣きそうな気持ちで笑う。想い出は思い出しすぎると色褪せるものですか。
自分以外の人と結ばれた末のすきなひとの幸せをこっそり願う気持ちなんてこれっぽっちも解らない、わたしがしあわせにしてあげるのにって思う。

朝早い時間に起きて友だちを駅まで送ってベースの練習をしていたらものの十数分で睡魔に襲われたのでそのままお昼寝をした。窓は開けっ放しでタオルケットを薄く被って、地下の涼しい風、お昼ごはんには大根おろしをたくさん入れた冷たいお蕎麦をたべて、もうすっかり夏の昼下がりだった。夏。長期休みに入ったらミントを甘く煮詰めたやつをつくってみどり色のかき氷シロップを買って、チョコミントとクリームソーダをいつでも飲める10代最後の夏にしようって。

数ヶ月先の未来にはやりたいことがたくさんあって、あれこれ書いてたのしみにしているのに「将来」なんて仰々しい言葉で括られると途端に何もできない、したくないような気がしてしまう。もう2年生になるんだからそろそろきちんと腰を据えて就職とかそういうことを考えなくてはいけない。間近に迫った協定交流学の出願にも向き合わなくては。わたしは何ができて、何をしたくて、何をしたくないのか。考えなくては。しっかりと。人生なんて一回しかないんだからわたしほんとうはフリーターになって音楽ばっかり聴きながらすきなひとと一緒に住んでどうしようもない底辺でずぶずぶな生活がしたい。今まで必死になって築き上げてきた学歴とかまともな人間性みたいなものを全部否定したら、きっとその先にはぬるくて甘くて抜けられないような世界があって、そこに浸かるには勇気がいるけど、ぐっと肩に力を込めて扉さえ開けばたぶん誰でも簡単に受け入れてもらえるんだろうなってこと。

 

すきなひとのこと、わたしならきっとしあわせにしてあげるのに。

自分の中でどうしようもなくなって相手にぶち撒けた痛みはきちんとわたしの心の中に返ってくる。返ってくるというよりは、相手の心に刺さって、わたしの中でもより一層広がって、つまりは数倍にむくむくと膨れ上がってどうにも手遅れになる。後悔で涙が止まらないだけ進歩した気もするけど、わたしもうこうやって八つ当たりするの卒業したと思ってた、何年も前から何も変わってなくて、何も変わってないということは、わたしは今この瞬間も確実に歳を取っている訳だから、それはつまり後退してるってこと。「錆び付く胸が痛い」なんて綺麗な言葉じゃ表せないようなくらいに気持ちがぐしゃぐしゃで立ってるだけで涙がぼたぼた溢れてくる。わたしのこの酷い仕打ちを優しさとか包容力みたいなもので受け止められて、自分の幼さとか親不孝ぶりをまざまざと見せつけられてるみたいで惨めで悲しくてどうしたらいいかわかんない、ううん、頭では解っているけど。わたしお母さんが死んだらどれだけ後悔するんだろうなって、そんなこと考えているときですら自分自身のことを中心に据えてやり切れなさに苦しむ自分に同情しているんだと思うとほんとうに呆れるしほんとうに嫌だし、でもどう頑張ってもわたしはわたしな訳で、どこにも苦情を入れる訳にはいかず誰かが解決してくれるということもなく、わたしがどうにかして変わるしかない。変わるしかないです。

幸福の科学の信者の友だちは、わたしが今まで逢ってきた数少ない人たちの中で確実にかなり上位で優しいし気が回るしきちんと話を聞いて一緒に頭を抱えてくれる。でももしこれが彼女の生まれ持った性格というより幸福の科学の教えで作られたものに立脚しているのだとしたら、果たして何が正しいんだろうって思う。わたしは何を否定してるんだろう。でもどこまでがその人の本質的な性格で、どこからが外部からの影響とか自分の意思によるものなのかっていうことは考えはじめたらイタチごっこできりがないので仕方ないような気もする。ただ、揺るぎなく信じているものがある人はとても強いっていうことだけは恐らく紛れもない事実。心が弱って宗教に縋ってしまう気持ちも、悲しかったり迷ったりすることがあるたびに結構な頻度で理解できるなって思う。社会についてのいろんなことが決まるずっと前から宗教だけは存在していて、今も続いているということは、宗教って案外正しいというか、なんというか、人間にとって絶対的に必要なものだったりするのかもしれない。でも現状わたしはその友だちがただ単に優しい子っていう可能性に賭けたいと思っているし、だからきっと今のわたしにとって宗教は必要のないもの。わたしは救いを求めてどこか遠くへ祈ったりしない。