自分の中でどうしようもなくなって相手にぶち撒けた痛みはきちんとわたしの心の中に返ってくる。返ってくるというよりは、相手の心に刺さって、わたしの中でもより一層広がって、つまりは数倍にむくむくと膨れ上がってどうにも手遅れになる。後悔で涙が止まらないだけ進歩した気もするけど、わたしもうこうやって八つ当たりするの卒業したと思ってた、何年も前から何も変わってなくて、何も変わってないということは、わたしは今この瞬間も確実に歳を取っている訳だから、それはつまり後退してるってこと。「錆び付く胸が痛い」なんて綺麗な言葉じゃ表せないようなくらいに気持ちがぐしゃぐしゃで立ってるだけで涙がぼたぼた溢れてくる。わたしのこの酷い仕打ちを優しさとか包容力みたいなもので受け止められて、自分の幼さとか親不孝ぶりをまざまざと見せつけられてるみたいで惨めで悲しくてどうしたらいいかわかんない、ううん、頭では解っているけど。わたしお母さんが死んだらどれだけ後悔するんだろうなって、そんなこと考えているときですら自分自身のことを中心に据えてやり切れなさに苦しむ自分に同情しているんだと思うとほんとうに呆れるしほんとうに嫌だし、でもどう頑張ってもわたしはわたしな訳で、どこにも苦情を入れる訳にはいかず誰かが解決してくれるということもなく、わたしがどうにかして変わるしかない。変わるしかないです。

幸福の科学の信者の友だちは、わたしが今まで逢ってきた数少ない人たちの中で確実にかなり上位で優しいし気が回るしきちんと話を聞いて一緒に頭を抱えてくれる。でももしこれが彼女の生まれ持った性格というより幸福の科学の教えで作られたものに立脚しているのだとしたら、果たして何が正しいんだろうって思う。わたしは何を否定してるんだろう。でもどこまでがその人の本質的な性格で、どこからが外部からの影響とか自分の意思によるものなのかっていうことは考えはじめたらイタチごっこできりがないので仕方ないような気もする。ただ、揺るぎなく信じているものがある人はとても強いっていうことだけは恐らく紛れもない事実。心が弱って宗教に縋ってしまう気持ちも、悲しかったり迷ったりすることがあるたびに結構な頻度で理解できるなって思う。社会についてのいろんなことが決まるずっと前から宗教だけは存在していて、今も続いているということは、宗教って案外正しいというか、なんというか、人間にとって絶対的に必要なものだったりするのかもしれない。でも現状わたしはその友だちがただ単に優しい子っていう可能性に賭けたいと思っているし、だからきっと今のわたしにとって宗教は必要のないもの。わたしは救いを求めてどこか遠くへ祈ったりしない。